フライブルクの歴史年表

2020.10.13


カテゴリ: 歴史

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フライブルクの歴史上で起こった、主な出来事を年表の形で順に書き出しました。国ではなく一都市の視点に立つことで、何か見えてくるものがあるかもしれません。

西暦
1091年
ツェーリング公ベルトルド2世がシュロスベルクに居城を建てる。周辺には城下町が形成される。
1120年ベルトルド二世の子コンラートが、城下町に対して市場権と都市権を認める(都市としてのフライブルクの誕生)
(参考 1192年 日本では源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉に政権を確立。鎌倉時代が本格的に始まる)
1200年ベルトルド5世により、大聖堂の建設が開始される。
1218年ツェーリング公爵家に代わり、フライブルク伯爵家がフライブルクの支配者となる。
ミュンスタータールの銀山からの収益もあり、その後フライブルクは繁栄を続ける。
(参考 1338年 日本では足利尊氏が征夷大将軍になり、京都に政権を確立。室町時代が本格的に始まる)
1368年フライブルク市民が伯爵家から支配権を買い戻し、自主的にオーストリアのハプスブルク家の傘下に入る
1452年ハプスブルク家のフリードリヒ3世がローマ教皇より戴冠され、神聖ローマ皇帝となる。以後、ハプスブルク家が帝位を世襲
1457年ハプスブルク家のオーストリア大公アルブレヒト6世により、フライブルク大学が開設される。現アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク。ドイツ国内の大学としては有数の古さ。
(参考 1467年 日本の京都で応仁の乱が勃発。以後、戦国の世が続く)
1513年フライブルク大聖堂が完成。
(参考 1603年 日本で徳川家康が征夷大将軍になり、江戸時代が始まる)
1618年親カトリックの神聖ローマ帝国と、プロテスタント陣営が衝突。親カトリックのはずのフランスがプロテスタント陣営に加わるなど泥沼化し、以後ドイツ地域で戦争状態が断続的に30年間続く。(30年戦争
1644年30年戦争の一環であるフライブルクの戦いが勃発。フランス軍とバイエルン軍(神聖ローマ帝国所属)がフライブルク近郊で衝突。フライブルクの町も被害を受け、荒廃する。
1648年ウェストファリア条約が締結され、30年戦争が終結。フライブルクはフランス王ルイ14世の支配下となり、築城技師ヴォーバンによって要塞の形態に造り変えられる。
1697年フライブルクがハプスブルク家に返還される。それと引き換えに、ライン川対岸のアルザスが全てフランス領となり、フライブルクと関係の深かったアルザスとが分断される。なおフライブルクはその後も度々フランスに占領される。
(参考 1702年 日本の江戸で赤穂浪士討ち入り事件が発生。
    1716年 徳川吉宗が征夷大将軍となる。)
1770年オーストリアとフランスの同盟に伴い、ハプスブルク家のマリー・アントワネットが政略結婚としてフランスのブルボン家に嫁ぐ。その途上でフライブルクに滞在する。
1789年フランスのパリでフランス革命が勃発。革命の結果、マリー・アントワネットも処刑。
1805年ナポレオンによりフライブルクバーデン選帝侯国に組み入れられる。(選帝侯:皇帝選挙に参加する資格を持つ領主)
1815年ナポレオン戦争後のウィーン会議により、フライブルクはハプスブルク家に戻らず、選帝侯国改めバーデン大公国(大きな公国ではなく、”大公”の治める国。首都はカールスルーエ)に留まることが決定される。
1845年バーデン大公国の国有鉄道がフライブルク中央駅まで開通
(参考 1853年 アメリカのペリー艦隊が鎖国中の日本の浦賀に来航、交渉の結果、横浜など数箇所を開港させる。
    1868年 戊辰戦争、明治維新により大日本帝国が成立)
1871年普仏戦争の結果ドイツ統一が実現し、諸邦(名称は王国や公国などだが、日本の藩のようなもの)の連合によりドイツ帝国が成立。フライブルクは引き続きバーデン大公国に属する。
アルザスが再びドイツ領となる。
1888年フライブルク中興の祖(zweiten Gründer der Stadt)とされる、Otto Winterer(オットー・ヴィンタラー)が市長になる。フライブルクの都市としての近代化が推し進められる。
1899年ドイツの高等教育機関として初めて、フライブルク大学が女性の学生を入学させる。
1901年トラムが開通。区間はRennweg–Lorettostraße(現在の2番と4番の一部)
1914年第一次世界大戦が勃発。前線に近いフライブルクも度々小規模な空襲を受け、灯火管制も敷かれる。
1919年ドイツ帝国の敗戦・ドイツ革命成立により、ワイマール共和国が成立。フライブルクはバーデン共和国(首都は引き続きカールスルーエ)に属する。アルザスは再びフランス領に。
1933年ヒトラーによるナチス政権が確立。フライブルクの市政もナチス関係者に握られていく。フライブルク大学の学長にも、ナチス党員だった哲学者ハイデッガーが就任
1939年ドイツ軍がポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発。
戦争の過程でアルザスが再びドイツ領に。
(参考 1941年 日本軍がアメリカの真珠湾基地を奇襲し、対米開戦)
1945年(4月16日)イギリス空軍によるフライブルク空襲。中世以来の旧市街の大部分が破壊される。
1945年 ナチス・ドイツ敗戦、連合国の占領を受ける。フライブルクはフランスの占領地域となる。アルザスが再びフランス領(本土)に。
(参考 1952年 アメリカ占領下の日本が独立国家に戻る)
1955年米英仏の占領地域が西ドイツとして独立国家に戻る。
バーデン、ヴュルテンベルクその他の合併によりバーデン・ヴュルテンベルク州(州都はヴュルテンベルク側のシュトゥットガルト)が成立。フライブルクはそこに属する。
1970年台ヴィール原発計画への反対運動が起こる。このころ問題となっていた、公害と思われるシュヴァルツヴァルトの立ち枯れとも相まって、フライブルクが環境都市の路線を指向するきっかけとなる。
1990年ドイツ再統一が実現し、東ドイツの諸州が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に加わる。西ドイツ側はそのまま。
名称は西ドイツから引き継がれたが、首都が暫定首都のボンからベルリンに移転する。(フライブルクはドイツの主要都市ではベルリンから最も遠くに位置している。)
1992年フランス軍駐屯地(ヴォーバン基地)の跡地に、新市街地であるヴォーバン地区の建設が始まる
2002年Dieter Salomon(ディーター・ザロモン)がドイツの大都市(人口10万人以上)で初めて緑の党からの市長となる。
(参考 2011年 日本で東日本大震災、福島原発事故が発生。)
ドイツ市民へ与えた影響も大きく、フライブルクでも反原発デモが行われる。メルケル首相は元々あった脱原発計画の前倒しを決定。
2020年疫病の流行により、フライブルク900周年(1120年の都市権承認から数えて)の行事が中止となる。

おわりに

こうやってみていくと、フライブルクは幾度も激動に揉まれてきたことがわかります。また改めてまとめたいと思いますが、フライブルクの人口の変化を見ると、30年戦争等を経て大きく減少し、中世の頃の繁栄が過去のものになってしまった後、近代になってから再び急成長しています。ドイツ国内の同規模の都市と比べて旧市街が小さいのも、それが理由でしょう。

フライブルクの人々は、その時々に最善だと思える選択をしてきたのだと思います。フライブルク伯爵に見切りをつけてハプスブルク家の下に付くという選択は、その後のハプスブルクの伸張を見るに、その時点では正解だったと言えるでしょう。しかし後にフランスから、敵国の拠点として狙われる原因にもなっています。

何が正しかったかは、歴史を経ないとわからないし、また時代によっても見方が変わってくるものだと思います。現在のフライブルクは、”環境都市”という路線でやっていく選択をした状態だと私は考えています。森林地帯に接し、大学や研究機関もたくさんある条件からは妥当でしょう。選択の結果は現在の誰にもわかりませんが、ひとまず次の時代においては、「環境都市フライブルク」として存在感を示し続けていくに違いないと、私は信じています。

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